称名寺へようこそ

富山県小矢部市 真宗大谷派 称名寺のブログ

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浄土の食(2022年2月22日の続き)

称名寺へようこそ 

ブログ訪問ありがとうございます

 

夏のような暑さになってきましたね。

お変わりありませんか?

 

昨日、シャクナゲの花をいただいたので、法話をされる先生の控室に飾ってみました。

たった一輪なのに、部屋がパッと明るくなって、まるで誰かもう一人いるように感じるほどの存在感。

人間のいのちも、動物のいのちも、草や木のいのちもみな、いのちの存在として等しいとお釈迦さまは説かれましたが、シャクナゲの存在感に触れて、お釈迦さまの仰ることは真だなぁと思いました。
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さて、以前に「浄土の食」について続きを書きますと言ってから、随分時間が経ってしまい、お待たせしてしまいました。(2022年2月22日のブログ)

 

3月頃から、少しづつ外に出かける仕事が増えて、目の前のことに夢中になっているうちに日が過ぎて、いつも頭の片隅に「浄土の食」のことはあったのですが、今日は夜遅くなったのですがブログを書こうと思い立ちました。

 

阿弥陀さまの浄土の教えを聞き、その浄土が建てられた願いを知った者は、この世にありながら、いつも阿弥陀さまを憶念しながら生きることになるということ。

 

日に3度とる食事「段食」は、ただ食べるだけでなく、教えを聞く身を養うための大切な食事になり、ともに生きる人の身と心を養う大切な食になります。母親が、子どもを思いながら作る食事、仕事に疲れて帰ってきたパートナーを労る食事、大切な仲間とともに、出会いをもっと深める食事、食卓が食欲を満たすためだけではなく、自分と相手を大切にする場へと変わっていくことでしょう。

 

人と人との触れ合い「触食」は人々を生かすもの、それはコロナによって本当に大切で必要なことと実感しましたよね。寂しい思いをしている人がいたら、あたたかい言葉をかけたり、そっと側に寄り添っていることが相手に生きる力をもたらすということは、この度しみじみと感じました。本当に少しのふれあいでも、優しい眼差しや、相手を思いやる言葉は、お互いに力が湧いてくるように感じます。

 

それから「思食」願いを叶えようとするときの苦労が苦労でなくなること、と聞いていますが、今ようやく法話の場を開けるようになって、先の見えない中に計画を立てたり、準備をすることは大変ではありますが、1つ1つ形になっていくとき、苦労は感じずに喜びがどんどん増えていくように感じます。コロナは大変でしたが、「思食」ということを以前より深く感じられるようになったと思います。

 

最後の「識食」、これは社会において私は私、という気持ちがあるからしっかり生きられるということとお聞きしていますが、混沌とした世の中にあって、いろんな考えに自分を乗っ取られたようになってしまっては、大事な自分を損なってしまいます。

本当に大切なことは何か、「私は私」人の言うことに振り回されず、自分を見失わず、本当にしたいことをいつでも始めて、自分を大切にすることではないでしょうか。そしてそれは周りを大切にすることにつながっていくように思います。

阿弥陀さまの教えに出会った者は、自分は阿弥陀さまから見たら「たったひとりの大切な子」であることを知って、自分の存在に満足することでしょう。また、目の前の人も、阿弥陀さまの大切なひとり子として、同じく浄土へ迎えられる人と分かれば、私を大切にしながら縁ある人々と出会っていく道が開かれていくように思います。

 

「浄土の食」みなさんはどう受けとめられますか?

 

なんまんだぶつ

また、お会いしましょう。