久しぶりのブログになりました。
この夏は大変な猛暑でしたが、お元気にお過ごしでしょうか?
こちらは朝から良いお天気で、気持ちの良い風が吹き抜けています。庭には秋海棠が咲き始めました。自然の中に少しずつ秋が訪れています。
さて、近頃の称名寺の様子、ご報告します。
8月の末に永代祠堂経会を予定しておりましたが、富山の新型コロナ感染者が急速に増えてきたため、法話は控えて内々でのお勤めのみということになり、8月28日の午前10時より『仏説 無量寿経』を上げさせていただきました。
昨年に続きコロナのために静かな祠堂経会となりました。お参り先などでお話ししていると、お盆も都会から若い方が帰省できず、さみしい思いをされているようです。帰れぬ人々もまた、さみしい思いをされていることでしょう。
早くお互いの顔を見て話をしたいですよね。
帰省できないという話をしているとき、いつも思い出すことがあります。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたうもの
金沢の詩人、室生犀星の詩です。
学生の頃、この詩はふるさとに帰りたいと思う歌か、それとも帰るところではないと思う歌か、と先生に尋ねられました。ふるさとに帰りたいと思う詩だと思ったのですが…
犀星は
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
と続けていて、その心は、郷里を懐かしんではみても、いざ帰るとさまざまなしがらみがあり、いさかいがあり、悲しい思いをするばかりなのだから、それならば遠くからふるさと恋しいと悲しくうたっている方がいい、ということでした。
人は誰でも安心して帰れる場所を求めているものだと思いますが、ふるさとがそういう場所ではないとすれば、とても切なくさみしかったことでしょう。
いつでも迎えてくれる場所、安心して帰れる場所があるということは、人間誰もが求めてやまないこと、帰りたいけど帰れない人にも、一人一人さまざまな事情があります。
誰もが安心して帰れる場所、真宗の教えはどのように応えてくれるのでしょうか。