称名寺へようこそ

富山県小矢部市 真宗大谷派 称名寺のブログ

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自分を愛するということ

一年を締めくくる報恩講が無事勤まり、師走を迎えました。有縁の皆さま方にお参りいただいて、おかげさまで報恩講を和やかにお勤めできました。
当日まで、さまざまな形でご協力いただきました皆さま方、本当にありがとうございました。

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写真は23日午前、副住職の法話の様子。
23日から24日にかけては、輪島の川岸敬巖師にご法話をお願いしました。

今年はお斎にと、今ではすっかり珍しくなった「ほうきんの実」を分けていただいて、胡麻和えを作りました。懐かしの味をよろこばれ、お参りの方から「おいしい!」「おいしい!」と好評をいただきました。ほうきんのことは、またあらためてブログに書きますね。

こうしてお寺の一年で一番大切な仏事を終えてホッとしているのですが、少し時間ができテレビを見ていて、このことを書かずにはいられないと思うことがあります。それはK--POPアイドルの先駆けとなったグループのメンバーだった若い女性が、自らこの世に別れを告げたことについてです。

テレビでは、韓国のネット社会で問題になっている誹謗中傷など心ない書き込みのことや、芸能人に求められる容姿や人間性などの基準の高さに、苦しい思いをしている人がたくさんいることを伝えていました。

残された手紙の「自分を愛せなくて ごめんなさい」というフレーズに、自分を大切に思う人々に、別れていくことをごめんなさい、と言っていると同時に、周りから求められることと実際の自分との間で苦しみもがいている姿を想像して、どんなに辛かったことだろうと思いました。

「自分を愛すること」は、簡単なようでいて、本当にとても難しいことだと思います。なぜなら、「自分を愛する」というときに、優れた自分、美しい自分、立派な自分なら愛せるけれど、できない自分、惨めな自分、愚かな自分は受け入れがたいという思いがあるからです。自分が受け入れられないような自分を、周りの人が受け入れてくれる訳はないと思い込んでいるとき、ありのままの「自分を愛すること」は至難の業と言えるでしょう。
激しい競争社会の中で、できる、できないを基準に優劣をつけられていれば「自分を愛すること」は「もっと素晴らしい私になること」と思いこんでいくことでしょう。勉強ができる、仕事ができる、スポーツができる、かっこいい、きれい、財産を持っている、立派な家柄…数えあげたらきりがありませんが、それを手にいれれば幸せになれると思ったいるうちに、それらを得ても安心や満足を得ることができず、生きていることに虚しさを感じることもあるのではないのでしょうか。

一人の女性が、ネットの向こうからの心ない言葉に、どんなに心を傷つけられたことか、求められる虚像に苦しんだことか、その思いははかり知れません。人はなぜ、相手を傷つけるようなことを言ったり、したりしてしまうのでしょうか。人間、この弱く、愚かな者、自らを裁き、他を裁く生き方を、どうしたら超えていけるのでしょうか。もし現代に親鸞さまが生きていらしたら、「自分を愛せなくて ごめんなさい」という一人の若い女性にどんな言葉をかけるでしょうか。みなさんは「自分を愛すること」について、どう感じていますか。