この冬は今までにない暖かさだったのですが、立春になってから雪が降りました。暖かくて過ごしやすいと喜んでもいたのですが、身の引き締まるような冷たい空気や雪の立山にふれて安心しました。
先日、住職の短い法話の中に「別れではなく永遠の出会い」という言葉あり、それからその言葉を何度も思い出していました。もう一度その話を聞きたいと思っていたところ、ふとした会話のなかでまた聞くことができました。
私たちは大切な人を亡くしたとき「もう会うことができない」と悲しみにくれ、なかなか立ち上がれなくなるときがあります。そのとき「別れ」て終わりと思うのか、それとも亡くなった人との「永遠の出会い」が始まっていくと受けとめるのか、もし「永遠」に「出会い」続けていくということがあるとすれば、そこには亡き人を仏さまといただいていく転換が必要になる、という話でした。
私は祖父を5才の頃に亡くしましたが、大人になる間に何度も何度も祖父のことを思い出しました。うれしいことがあったときは「おじいちゃんは喜んでくれるかな」さみしいときや頑固になっているときには「おじいちゃんは悲しんでいるだろうな…」と、阿弥陀さまの世界、お浄土の仏さまになっていかれたおじいちゃんとして、お念仏を申すこととともに、幼心に素直にいただいていたように思います。
思い返してみれば、幼子にお念仏の心を伝えてくれたのは誰なのでしょうか。私は祖母から手を合わせて「なむあみだぶつ」と、阿弥陀さまの名前を呼ぶことを教えてもらったことを覚えていますが、それより先に、御堂に集まる人々の後ろ姿、その中からわき起こる念仏の声をこの身に受けていたことが、大きな大きな教えであったようにも思います。
誰にとっても大切な人、かけがえのない存在との別れは、言葉に表しきれないほど悲しく苦しいものです。だからこそ「別れ」を「永遠の出会い」と受けとめられるのならば、そこにかすかな光、生きる希望を見出だすことができるように感じられます。「別れではなく永遠の出会い」の世界は、私たちが憧れ求めてやまない、心の通い合うあたたかな世界なのではないでしょうか。