急に寒くなりましたが、お変わりないですか?
こちらは15日の朝、うっすら雪が積もりました。今年初めての雪です。今朝も空は灰色の雲に覆われています。
薄曇りの空、雲がかかっていても日中はほんのり明るいんですよね。こんな空を見ていると、親鸞聖人の『正信偈』の一節が思い浮かびます。
譬如日光覆雲霧 (ひにょにっこうふうんむ)
雲霧之下明無闇 (うんむしげみょうむあん)
阿弥陀如来さまの智慧の光は、自分の殻に閉じ籠って眠りこけている私たちを目覚めさせるはたらきがあるのですが、またすぐに貪りの心や憎しみの心が起こって、阿弥陀さまから降り注がれている慈悲の心を覆ってしまいます。それはまるでお日様が雲や霧に覆われてしまうように。けれどもお日様の光があることで、雲の下はうっすらと明るく、真っ暗になってしまうことがないのです。
たとえ厚い雲や霧があったとしても、それでもうっすらと明るいということは、晴れないままに雲や霧を通して光は降り注いでいるということ、煩悩が盛んになっていたとしても常に阿弥陀さまの慈悲の心に照らされ護られていることに他ならないと親鸞聖人に教えていただかなければ、雲や霧があることを恨んでみたり、どうにか晴らそうとしてみたり、自分の力の及ばないことを変えてみようと必死になっていることでしょう。
お日様の光によって形のない雲や霧があることを感じとることができるように、阿弥陀さまの智慧の光によって、私たちの身と心を騒がす煩悩が一体どんなことを引き起こしているのかが見えてくる。そう考えると、お日様の光は眩しすぎて直接見れないように、目には見えない仏さまの智慧の光から煩悩の姿をあぶり出されることによって、煩悩に振り回されている姿を慈悲の心で痛まれている仏さまのお心を知ることができるとも言えるでしょう。
以前、北陸の熱心な門徒のおばあさんが「煩悩をなくしてあげると言われてもお断り。煩悩があったればこそ、仏さまのお慈悲がいただけるのだから」と、お念仏を喜んでいたというお話を聞いたことがあります。煩悩の身のままに、仏さまの智慧と慈悲の光が降り注がれていることをありがたくいただいていく、なんとも不思議な世界がある、薄曇りの空を眺めながら、そんなことを考えた朝でした。