称名寺へようこそ

富山県小矢部市 真宗大谷派 称名寺のブログ

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吉崎の嫁脅し

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称名寺へようこそ
ブログ訪問ありがとうございます。

北陸は昨晩からまた冷え込み、今朝は雪が降りました。今晩にかけて更に積雪量が増えるとのこと、立春を過ぎ雪も雨に変わる頃なのですが、まだまだ厳しい寒さです。

さて、今朝ご近所さんから端正込めて育てられた蘭の切り花をいただきました。寒さも吹き飛ぶような心あたたまる出来事です。机に飾って、そのまま一仕事に取り掛かろうとしたところ…

いつもの、猫のチーコの邪魔が入り

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ノートの上を占拠してしまいました。
こういう時、無理に退かそうとすると手に噛みついて大暴れ、あまりにも小さいうちに兄弟と離れて一匹で育ったチーコは、じゃれあって甘噛みしながら手加減を覚えていく経験をしていないので、本気で噛みついてくるのです。

仕方ない、字を書くのは諦めてスマホでブログを書くことにしました。そして前回続きを書くと言いながら12日も経っていたことに気がつきました…すみません。
浦島太郎のように、目の前のことに夢中になっているうちに、あっという間に日が過ぎていたのです。

さて、節分の日には「豆まき」をする風習がありますね。そのときに一家の繁栄を願って「鬼は外、福は内」と言いながら豆を撒きますが、鬼って一体どこにいるのでしょうか?実は自らの内にいるのではないか、そう思えてくる伝説があります。

それは『吉崎の嫁脅し』というお話しです。

今から500年も前のこと、今の福井県と石川県の県境に吉崎という所があり、蓮如上人が数年の間その地にお住まいでした。

この伝説は少しずつ内容の違う話があるのですが、大筋はこういうお話しです。

若いお嫁さんが吉崎の蓮如上人の元へ足しげく通うことが気に入らなかったお姑さんが、ある夜お参りに出掛けたお嫁さんを驚かそうと鬼の面を着けて夜道に待ち伏せをしました。ちょうどお嫁さんが通りかかったとき、お姑さんは鬼の格好をして真っ暗闇から飛び出して、お参りに行こうとするお嫁さんに襲いかかります。しかしお嫁さんは驚く様子を見せず「食い殺そうというのならばそうしてしまえ でもダイヤモンドのように固い仏さまの信心は噛み砕くことはできないぞ」と鬼に向かって言うのです。驚いたのは鬼の格好をしたお姑さんの方です。腰を抜かしてしまいますが、鬼の面を外して家に帰ろうとしても鬼の面がピタッと顔に張り付いて取れなくなってしまうのです。
お嫁さんの方はというと、家に留守番をしているお姑さんに何かあっては大変と急ぎ家へ帰るのですが、家にはお姑めさんの姿はなく、心配して探しに出掛けます。夜道を進んで行くと先ほどの鬼がうずくまって泣いているではありませんか。お嫁さんはその鬼がお姑さんだと気がつき、一緒に蓮如上人のもとを訪ねます。話を聞いた蓮如上人は、お姑さんに阿弥陀さまの教えを説いて念仏をすすめるのです。そのすすめに素直に従い「ナムアミダブツ」と口にすると鬼の面はポロリと外れた、そのような言い伝えが残されています。

この伝説、一体何を伝えようとしているのでしょうか。取れなくなった鬼の面、それはお面ではなくて自分の姿そのものと教えているように思われます。人を憎んだり、妬んだり、驚かそうとしたり、自分の気に食わないと相手を変えようとする心、それは自分の外にいる人、怖い鬼の持っている心ではなく、自分の中にある心と言えます。その心を自分で取り除こうとしても取ることができない、鬼の面が外れなくなるというのは、そういったことを意味しているのだと思うのです。

そしてその鬼の面が、蓮如上人のすすめで念仏を申したことで外れた、というのは、そのような愚かな醜い心を持っていることを蓮如上人は嫌わずに、だからこそ阿弥陀さまに救われなさいとすすめられた蓮如上人上人によって、阿弥陀さまのすべてのものを受け入れる深いお心に触れることができ、それによってお姑さんの頑なだった心がほどけていったことを指し示しているのではないでしょうか。

「鬼は外、福は内」の鬼は一体どこにいるのでしょうか。実は自らの内にいるのではないでしょうか。鬼に気づくこともできなければ、たとえ気がついたとしても自分の一部である鬼をどこかへ追いやってしまうこともできない。しかし、その鬼を嫌わずに、その鬼を縁として阿弥陀さまのお心に出会っていく道があります。


なんまんだぶつ
誰にでも等しく送られている仏の心に
ともにお会いしましょう。