近ごろ朝晩はひんやりとしますね。今朝のチーコはだんご虫のように丸まっていて、気温が下がって来たことを目で見て感じています。
数日前から住職がしきりに“煩悩”のことを口にしています。何気ない会話の中のことなのですが、
「若い頃は煩悩がこんなに危ないものとは思っていなかった」とか、今朝も食事の時に
「煩悩によって仕事や勉強を頑張ったり、それが一家の繁栄につながったりするから大切なものでもあるけれど…」
と話始めたので、しばらく耳を傾けました。話を聞いているうちに、私たちは時々自分でも思いがけないようなことを言ったり、したりすることがありますが、それはもともと私たちのこの身が煩悩そのものであり、それが何かの縁によって正体を表した、そういうことを伝えようとしているように聞こえてきました。
人間は誰しも、自分は清らかで汚れのない者だと思って生きている、とある先生から聞いたことがあります。その時、少し先輩のお坊さんが、このように言っていたことを思い出しました。
「仏法をきくまで、私は真っ白いシーツにくるまっていたようなものでした」
先生や先輩の言いたかったことは、自分はとてもいい人間だと思い込んでいたけれど、仏の智慧に照らされて見れば、煩悩でいっぱいの身であったと言うことなのですが、そこにはそんな醜い自分は許せないとか閉め出してしまおうとかそういったことではなくて、その自分も受けとめて認めていく力を与えてくれる、仏の慈悲のはたらきを讃えられていたのだと思います。
親鸞聖人のご和讃には、煩悩の身に届けられている阿弥陀如来のはたらきについて
煩悩にまなこさえられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
と書き残されています。煩悩によって本当に大切なことが見えなくなってしまっていても、阿弥陀如来は決して見捨てない慈悲の心で常にわが身を照らし続けてらっしゃる、親鸞聖人の静かなよろこびが伝わってくるように思えます。