今日もよく晴れた朝を迎えました。あなたの町のお天気はいかがでしたか?
さて、今回は前回からの続きになります。
阿弥陀さまの誓願をお聞きして、念仏を申すようになったけれども、飛び上がって踊り出すほどのよろこぶこころにはなかなかなれないし、阿弥陀さまの待っていらっしゃるお浄土に早く往きたいとも思えないと、正直な気持ちを語った唯円房。
すると親鸞さまは「それではまだまだ修行が足りないな!」とおっしゃったかというと、そうではなくて、なんと、
「唯円そなたもおなじこころであったとはなぁ」
と、おっしゃったのでした。親鸞さまはどのようなお考えで、そう言われたのでしょうか?
「しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」
親鸞聖人は「阿弥陀さまは、我々が我々の煩悩によってお念仏をよろこべないと知っていらっしゃる」と考えていらしたのでした。
ちょっとでも体の具合が悪ければ「死んでしまうのではないか…」と心細くなってしまう私たち。阿弥陀さまのお浄土はこころ安らかな覚りの世界と聞いても、まだ見たこともないお浄土なんて行ってみたくはないのです。すったもんだしてても、この娑婆世界は去りがたい…それこそ煩悩が盛んに騒いでいるの姿だというのに…。
そんなことは全部折り込み済みで、阿弥陀さまは「これはこまったものだなあ」とおもっていらっしゃる、おそらく親鸞さまはそのように受けとめておられたのではないでしょうか。
そして、早くお浄土に往きたいなどというのは、かえって煩悩はないのだろうかとあやしいものだ、とおっしゃっているのです。
私たちがかっこつけて、覚りを得たような顔で
「いつでも阿弥陀さまのお浄土に往く覚悟はできています!」
などと言おうものなら、もしかしたら親鸞さまは「それはうそじゃあないですかねぇ」とおっしゃるかもしれませんね。
生きることも死ぬことも、にっちもさっちもいかないものに、いとしいなぁ、不憫だなぁ、悲しいなぁと言葉にならない思いをかけていらっしゃる、そういうことを阿弥陀の大悲というのでしょう。
そうだとするならば、煩悩をいっぱい抱えたままで、阿弥陀さまのお心をいただいて生きていくというのは、どういうことなのでしょうか?
越中門徒の大先輩、西田真因先生がこのようなことを教えてくれました。
先生が幼いころ、先生のおじいさんや周りの人々は、畑や家の仕事がたくさんあり一休みすると怠ける心が出て作業を止めたくなったりしてしまうときには、やれやれこのような怠け心(煩悩)を起こしては、また阿弥陀さまのお心を悲しませているのか…と、自分の怠け心にもう一度火を着けるようにして立ち上り、仕事に向かったそうです。
仏さまの慈悲に胡座をかくのではなくて、煩悩によって、また仏さまを悲しませているなぁ…と立ち上がって生きていかれたのですね。
身と心を煩わせる煩悩が、仏さまのはたらきにあうと、たちまちに生きる力に変わっていく、本当に不思議なことだと思います。
親鸞聖人と唯円房の対話から、『歎異抄』のお心にふれ、西田先生のお言葉とともに、私のいただいているところを少し書き記してみました。